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渡邊秀樹 ヘルズエンジェルス等 アメリカ生活14年間の体験談など 仙台 渡辺秀樹、HELLS ANGELS について
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私は  外見に 全く頓着しない




ヘアースタイル、 服装、 車、 等々、、

実用、機能優先タイプの人間である



モーターサイクル・クラブに居た頃は

ビザ更新の為 半年に1度 帰国し

仙台駅西口に在る 友人の床屋 「 ドスティー 」に行き 整髪した



毎日  バイクに乗り ヘルメットをかぶる

クシャクシャの髪を直すのも、帽子を被るのも面倒だった私は

1度、 楽な アイパーをかけて クラブに戻った事がある


「 ストレートの黒髪 」 が 、東洋人、 私の印象だったのか


くせ毛や、髪の薄い アメリカ人にとって

余ほど 不思議な印象であったのだろう


「 髪型 変えたのか? 」 では無く


「 どうしたんだ!? 何をしたんだ!? 」


「 どうして わざわざ そんな事をするのだ? 」 と


1980年代

男性がパーマをかけることは ほとんど無いアメリカでは


メンバー、一人 一人に 会うたび、好奇の的となり

笑いの種に成ったのも 思い出である



その後は、長期裁判の為 9年間 日本に戻れず

伸ばし、 結んでいた髪を  自分で切っていた


今も、友人には申し訳ないが

安上がりに、バリカンを使い 自分で済ませている



服装に関して


極端な 汗かき、暑がりの私は

一年の多くを、T-シャツ 短パンで過ごす事が多い


夏は、T-シャツや 靴下を 日に2-3度交換する

オシャレよりも 心地よさ優先である



ここ数年  新しい服は購入したことは無く

仕事柄 持っている物の殆どは 古着であり


着飾るため というよりも

味わい深いモノ 、 作品  としての魅力を感じ

見て、着て 楽しんでいる というところである


しかし、 前述の通り 夏が苦手な 汗かきの私は

汗による 襟や、袖口のヨゴレが 痛ましく

デニムも  汗をかく度 洗っていたのでは

色落ちも、風合いも あったものではないので


ハワイアンや、ワーク・シャツを 着るのは

11月頃から 2月位までの

長時間歩いたり、暖房の効いた建物に 長居する事の無い場合と

古着に興味がある人に 会う時だけの

ほんの 短い期間である



若い頃 好きで集めた スカジャンも

年齢と共に 似合わなくなり 30歳を過ぎた頃 全て売ってしまった


逆に、 毛皮 や 、地味な ハンティング・ジャケット

ベストに スカーフを巻くスタイル等が

年齢と共に  浮き立たなくなってきた



自分の顔に 合っているか

着こなしているか、 服に着られてはいないか



私の場合 服装のポイントは  “ 顔 ”  というところか



私が自分を、流行は勿論のこと、着飾る事や

自分を 格好、体裁良く 見せたいという

強い欲求が無いと  自己分析するのは


外出する時

鏡の前で、 色合せ、 組み合わせ

シャツの選択に 迷ったりすると

なにか 自分が “ 男らしくない事 ” をしている様な気がして

投げ出してしまい


無地のウインドブレーカー等を羽織って

「 ヨシ 」 とする事が 多々あるからでもある



車も然り

私にとって 車は

“ 移動に使う 便利な鉄の箱 ” 、 又は

“ 大きな カバン ” 程度の 「 物 」で

腰に負担の掛からない 座り心地の良いシートだけが 条件である



つまり、 基本的に 主役はあくまでも

「 自分自身 」 という 考えである



人間 30代にも入れば

性格、 人生経験、 それまでの修養 が 

自ずと 顔や、雰囲気に顕れてくる



とりわけ 綺麗な服を着ていなくとも

男の注意を 誘う “ 魅力的 ” な 女性がいる


ハンサムでなくとも、 顔、全身から出る 圧倒的な 存在感で

着ている物や、車、バイク、持ち物を 気にさせない 男がいる



いつくしみ深く  人に接し

誠実に、 熱く、 きびしく 自分自身を磨く事によって


人間は 内側から光を発し 、 その光は 衰えること無く

こころざし 続く限り 増すばかりである



私は その 内側から にじみ出て来る 「 光 」 即ち

温かさ、 威厳、 存在感 というものを 尊重するが故


他人の容姿や 服装、  経済力や 社会的地位 云々

同時に  身の回りを飾ることに  頓着しない




これは 案外簡単に 実践、証明 出来る事で


ブランド物の靴や アクセサリーを買う お金の中から

3,000円ほど 絞りだし

木刀を1本買い

毎朝、5時に起き 1時間の素振りを 1年間続けてみるとよい


良い靴に、洒落たネックレスの似合う

“ いい男 ” に成っているはずである



そんな私が 23歳で アメリカに行き

古着、 ハーレー関係の物を扱う事を 生活の糧にし始めた


動機や きっかけ は、長くなるので ここでは割愛するが



1990年台初頭、 回っていたのは

俗に “レギュラー” と呼ばれる

低価格で アメリカらしいデザインの

シャツ、ジーンズ、T-シャツ、スゥエット等の 基本衣料と

雑誌で紹介される わかりやすく、知名度のあるビンテージ であった



それこそ 始めた頃は

数百枚単位で 日本に送れたので

細かい 色、柄 等も さほど気にせず

スリフト・ショップを数件回り 車を満杯にする様な

雑な買い付けも していたが


次第に この色は、、このチェックは、、このプリントは、、と

内容を 絞り込まれてゆくと


経験浅く、目が未だ洗練されていないのに 加え

前に述べた様に、

服に余り執着が無く、センスの良い 洒落者ではない 私は

良いチェック、売れるプリント、等を見極めることに 苦労をした


アメリカに 住みっぱなしで

日本人がどんな格好をして 街を歩いているのか

見られないまま 続けていたのも マイナス要因だったかもしれない



古着を愛し、お洒落を楽しむでもない 私が

とにかく 歩き、 睡眠時間を削り 車を走らせ

がむしゃらに こなしていた 初年度

私にとって、買い付けは “ 労働 ” 的なものであり


あのまま 続けていれば


服を選ぶ センス、資質の無い当時の自分に 限界を感じ

楽しみ、満足しながら出来ていない仕事に 嫌気が差し


買い主も ストレスを溜め

長くは 続かなかったのではないかと 想像できる


が しかし


この ターニング・ポイント的な時期に

良縁 が 働いたのである



私が

古い Outdoor Wear や

Work Clothes に 興味を持ち、 好きに成り


買い付けの 宝探し的楽しさに 目覚めさせてくれた


「 CORONA 」 の


西 秀昭さん との出会いである











私は 、日本に帰り  40歳 を過ぎたら


普段着は 全て 和服にしようと 思っていた




が、しかし

胸囲が有るため  着物の古着も 着られる物が 見付からない


今は、 数を 仕立てられるほど 懐具合もよろしくない


かといって  作務衣というのも 垢抜けない


ないない尽くしで、 未だに 古着を着る 中年である



新品は、 FILSONを 古着と一緒に 着まわしている程度で


何しろ  高い お金を出してまで


買いたいと思わせる 新しい服が 見当たらないでいた。。



(これ位のデッドは ナカナカ出ません 1910年代)

1940年代以前の  WOOL & COTTON


色、 柄、 かたち、 ステッチ、 素材の 厚み 密度の 質感、


そして、 今では 定着している 一般的、機能的なデザインに無い

各社 独自の 工夫、 オリジナリティー


時として 突飛なスタイルとも成る 奇抜なデザイン


当時の機能性と 、衣類デザインの 試行錯誤が見られる 時代



この時代の  実物を 手にすると

なかなか 現行の服を  楽しく  着ることが出来ないものだ



しかし、 40年代以前の ビンテージで

自分に似合う 色、 柄、 サイズ、  そして コンディション。。


そうそう 沢山 見付かるものではない



特に私は

チェスト・サイズ  ”46” は 必要なので



服が、 好きになれば、好きに成るほど


あくまでも、上の条件を満たす ビンテージを探し続けるか


テーラー・メイド に するか  という事になるのだが




「 CORONA 」
 は、



私の 、年齢、 スタイル、 好みに  ストライク! である




“ 服が、 好きなんだなぁ~! ” と


しみじみ感じる  ディテール、 ラインナップ



頭の中には


未だ 実現していない 素材、 スタイル、 アイデアが

渦巻いているのだと 思う




「 CORONA 」 が ある限り


私に  洋服の 心配は 要らない様だ



秀昭さんに 感謝である



あとは、 自分のスタイルで 和服を着るべく


稼がねばならぬ  ということだ




私が、 その秀昭さんに

初めて お会いした時の情景を 今でも 覚えている



デッドストックを 半年ほど穿いて 一度洗った様な風合い

確か リーバイスだと思ったが。。



ヒップ・ポケットの部分のみ ほんのり色落ちし

ステッチの色が 鮮明に浮き上がった


一目で ビンテージと分る   濃紺のジーンズを

かなり ゆったり目の オーバー・サイズで穿き



557か


これまた どす黒い色の デニム・ジャケットに

C-1 Vest を羽織っていた



秀昭さんの事だから

C-1 も


チェスト・ポケットが 斜めに スレントしたタイプの物を

着ていたのでは なかろうか。。



今から 20年近く前の事に成るが

ハッキリとした 記憶が残っているのは


当時、仙台育ちの 私にとって


デニム・ジャケットと C-1ベストの重ね着が

とても 新鮮な組み合わせ で あったからだ



アメリカに渡る前、20代前半の私や、 身の回りの友人にとって


古着とは


“ アメリカ人の様に成る為の道具 “ 的な 意味合いが

強かった様な気がする



501、 ホワイトTee、 ドリズラー、 リーゼント、

ハワイアン、 プリーツ・パンツ、 ギャバ・シャツ & ジャケット、


バディー・ホリー、 プレスリー 、etc。。。

1950年代、60年代の 音楽、 映画 の影響が大きく



80年代半ば  仙台では


ロックンロール、ロカビリーの コンサートや、

仲間内での ダンス・パーティー等も よく開催されていた




(私は 右端)


しかし, その ほんの4~5年の間でも 激しく流れが変わり


華やかな 50年代の アメ車、 50‘sの服 から


クラウン、 グロリア、 メグロ、 陸王 等 国産の 古い物にも手を伸ばし


「 アメリカン・グラフィティー 」の ファラオから、少しづつ 時代も上がり


「 ワンダラーズ 」、 「 ウォーリアーズ 」

「 アウトサイダー 」、 「 ストリート・オブ・ファイヤー 」 など


泥臭い  アウトロー的なものや



「 タクシー・ドライバー 」 等


庶民的、一般労働者的な ファッションにも目を向け始め


エンジニア・ブーツに  フランネル・シャツ


ワーク・ジャケット、 ピー・コートに  ワッチ キャップ


バイカー Teeに デニム・ジャケット、 ダブルのライダース等



この  1980年代半ばから、後期にかけての数年間


私の友人、知人達の  急激なファッションの流れを

あえて 言葉で表現すれば


“ 憧れ ” 的なものから、


“ 現実 ” 的な ものに  洗練、進歩していったと 言えるかもしれない



若い私達は、


映画、 当時のコンサート・フィルム 等から

ファッションや  アメリカの匂いを 貪欲に吸収し


それを 自分自身で体現、 表現する為の ツールとして


当時の服、 “ ビンテージ ” が

必要であり 且つ、 堪らなく 魅力的であったのだろう




さて、

説明が 長くなってしまったが


私の 言わんとしている事は、、 たとえば


当時 日本で私が持っていた 軍物は

M-65と、タンカース (当時タンカーJKTは まだ安く買えていた)



それを、

そのまんま タクシー・ドライバーの トラビス風に着こなす。。という様な


モデルとなる アメリカ人がいて、それをコピーし 成り切る呈の物で



田舎者の私には 見た事のない


C-1ベストと デニム・ジャケットの重ね着が

新鮮で、 とても 斬新に見えた為、 印象深く覚えていたのである




秀昭さん と 出会った 場所は


“ 77th & Columbus ”



私達、 ディーラー同士では “ コロンバスに 行ってくる ” という風に


“ コロンバス ” や “ 77 ストリート ” という言い方をした


Museum of Natural History(自然史博物館)向かい


パブリック・スクールの 校庭と、校舎の一部を利用した

フリー マーケット だった



ここは、衣類や 食べ物等が 多く


アンティークや、初出し( うぶだし ) 品は 余り出ないので


26丁目から はしごして来るディーラーは 余り居ない


どちらかというと

アッパー・ウエストサイドの住人や、観光客が来るマーケットだ



その頃 私は、82丁目のセントラル・パーク沿いに 部屋を借りていて


朝、5時頃から 26丁目の アンティーク・マーケット

8時過ぎに、ブロードウェイ沿い GRAND St のマーケットに回り


その後 コロンバス に向かうというコースで 日曜の午前中を過ごしていた



当時の コロンバス・マーケットには


パット、 デイビッド・オーゥエン、メトロポリスのリチャード、

軍物と さほど古くないデニムを持った 黒人のおばさん等


多くの古着ディーラーが 出店していた



後に、


パットは 26丁目にも 下りてきたし、

リチャードは GRAND St と掛け持ち、

デイビッド・オーゥエンは 3ヶ所 プラス・アルファーと

精力的に 展開していたが



初だしの 古い物を狙っていた私は

マーケットでは 26丁目をメインにしていたので


一般の アメリカ人を対称にした物が多かった コロンバスでは

デイビッド・オーゥエン以外


たいした BUYは 期待していなかった



当時、私達 古着を集めるディーラーは、 各々

気の合う アメリカ人 ディーラーを 何人か 確保しており


私にとって、この コロンバスでは デイビッド・オーゥエンが そうで


彼が ラグ・ハウスで 掘り出した中で、 日本のマーケット向きの物は


マーケットに出す前に、 自宅で

私に 見せてくれる事に 成っていた



私も それなりに 彼が納得する 誠意ある金額を払い


サイズ、コンディション等の理由で  はじいた物は

日本人観光客向けの 価格設定等を アドバイスしたり


持ちつ持たれつの 関係を持っていた



パットや、リチャード等 他のディーラーにしても

それぞれ 気の合った日本人ディーラーが 居たのかと思う



そして、 コロンバス・マーケットは  26丁目と違い

ゲート、開門時間が 有ったので


荷おろし中に 交渉することも出来ず


秀昭さんが すでに門内に入っていたこともあり


私は、 買い付けというよりも


秀昭さんに 挨拶する事と、 食べ物を買うためという

非常に のんびりしたムードで 行ったものだ




食べ物では


今でも 思い出すと 口の中が潤ってくる


眼鏡をかけた 黒人のおじさんが焼く


キャロット・ケーキや、 スパイシーな ベジタブル・マフィンが

忘れられない


冬には、


ニュージャージー辺りの 果樹園から来ていたのだろう


リンゴなどを 売りに来ていたブースの

甘酸っぱい ホット・アップル・サイダー



それらの 軽い朝食を取りながら


一応、マーケット内を サラリと1周し


陰気な感じで 私は どうもウマが合わなかった リチャードの


「 メトロポリス 」  ブースを 手伝っていた


秀昭さんに 会いに行く



当時、全くの手探りで 古着の買い付けを始めた私は

古い メール・オーダー・カタログ等を集めて 勉強する といった事さえも

考えが及ばず


朝、26丁目で 見付けた物や、 その週に買った 古着について


「 これは、古い物ですか? 」

「 これは、いつ頃の物でしょう? 」 と 遠慮無く 無知な質問をし

秀昭さんは 倦まずに そんな私の 相手をして下さり


古着の事から、 買い付け先の ラグ・ハウスの事まで

色々と 話して下さった




その頃の 私は  特に 人見知りが 強く


14年間 ニューヨーク、ニュージャージーに住みながらも


話をする 日本人の知り合いは 5人と居なかったほどであるが



秀昭さんと

秀昭さんに紹介された コージさんの お二人は


日本から来る 古着屋の オーナーや、他の ディーラーと違い


なぜか  とても接し易く


人柄なのでしょう


若くて 無知な 私にも 色々優しく教えて下さり

私にしては 珍しく、自宅にも邪魔させて頂いた



ビンテージや アンティークの ディーラー、店主 にとって

「 物 」 は、「 金 」 に成るもの



万人平等に起こる 物との 「 偶然、必然 の出会い 」 プラス

早起き、 幅広い 良い人付き合い、 リサーチの努力 は

自分で出来る 努力



おべっかを使い、時には嘘もつき、 他人より 10ドルでも多く出して


どうにか 「 手に入れる事 」 が、 仕事としての成功で


大変 アグレッシブな  弱肉強食 の世界である



男らしい態度、 人が好い 優しい性格、 は

往々にして 「 物 」 が手に入らない マイナス要因とも成り


仕事としての 「 成功者 」 に 成る為には

かなり 徹底した 「 商売人 」 に成る事も 要求される



愛好者、 コレクターでもあり

それを売り買いして 生活も 成り立たせなければならない


自分の好きな物を、理解し、購入してくれる 需要量

マーケティング、 セールスの センス


良心、 プライドとの 葛藤 等々、、



ビンテージ、アンティークの  ディーラー、店主 は

何処に重きを置くかで 様々な 心労があるものだ



秀昭さんは 既に、服を作る事で 動き始めていたのだが


コージさん同様、 「 商売人臭さ 」 が 感じられなかったのが

私にとって、 接しやすかった 理由だったと思う




初めて 秀昭さんのアパートに お邪魔した時の事


確か、 Queensの アストリア だったと 記憶している



部屋のコーナーには 天井から、 Lee Cowboy の

ディスプレー用 ジーンズが ぶら下っていた



当時  初心者の 私


「 これ、案外 見付からないんだよねー 」 という 秀昭さんに対し


「 へぇー、そうなんですかー 」 と 実感の無い、軽い返事をかえし


その珍しさに 余り ピンと来ていなかったのだが


後々、10年以上

州外を回り、ローカルなフリー・マーケット、アンティーク・ショップ

古い店での デッドストック探し等をしたけれども


Lee OVER ALL、 LEVI‘S “E”、 “XX”

珍しいところでも FINCK‘S や、カーハート と

ディスプレー用 ジーンズ、オーバーオールは 色々見付けたが


Leeの カウボーイ の ディスプレー・パンツ は

1度も 実見しなかったので


後年、

あれは 凄かったなー と、 つくづく 実感したものだ



又、ある時は 

「 これ 面白いでしょ、 こういうの 探してるんだ 」 と


 “ オーバーオールが 走っている ”  デザインの

ワーク・ウェアー・ボタン を ポケットから 取り出し 見せてくれた



「 可愛いですねー。。。 」 と  言っては みたものの

その魅力を  全く理解していなかった  当時の私


20年前、 既に 秀昭さんは これらを収集していた訳で


今でこそ  私も 数百個のボタンを 集めてしまっているが


それも 秀昭さんが きっかけである






そして、 秀昭さんの お部屋で 色々と お話をしている時


コージさんが 段ボール箱を抱えて 訪ねて来た




この、 コージさんは

私の、インダストリアル・デザイン好きに 火を点けてくれた人で


州外を車で回り、買出しをする

同業者 プラス、 ビンテージ & アンティーク Lover である



ウォール・ストリート金融街 近くにある

コージさんの Cool な ロフト にお邪魔した時


ズラリと並んだ、アルミ製のロッカーに 一目惚れし


私も、 アメリカ軍 潜水艦用と言われる それを

部屋に置き切れないほど 探し出し、楽しんだ


釘や ボルト、ナット、機械部品等を 溶接して 手作りした

スクラップ・メタル・ワーク に 興味を持ったのも


コージさんの影響である







後に、 一緒に 26丁目のマーケットを 回った時


鈍い金色に光った 数千ドルもする 真鋳製の望遠鏡に 何度も引き返し


「 あと、千ドル安ければ 買うのにな~ 」 と言っていた事が

懐かしく 思い出される


その頃は、

「 これに、よく 数千ドルも出す気になるなぁ 」 と

思いながらも


私も、洗練されれば 何時かは 良いと思うのだろうなぁ と 感じていたが


案の定、後年  古い真鋳製望遠鏡の魅力にも ハマってしまった




その コージさんが 部屋に持って来たものは


どこかで掘り出してきた  デッドストック

WOLVERINE ウォルバリンの 革靴であった



恥ずかしい事に、当時 駆け出しの私は

Work Clothes等の 40年代以前の物に 知識が 全く無かった為


その 古い ワーク・シューズに 対し


「 地味だなぁ 」  としか 感じられず



2人が、靴底の作りや、縫製等について 熱心に語っているところを

ボンヤリと 眺めていた だけであった



その日の記憶は そこまでであるが



その時の 二人の 熱心で、楽しそうな光景が

何故か 頭を離れず



当時、ブルックリンの ラグ・ハウスと、古着屋、スリフト等で

日本からの 注文に どうにか間に合わせていたのだが。。




26丁目 の マーケットで


デッドストックの ジーンズの山を 何度か 見付けるたび


「 これは 、ロングアイランドの 乗馬用品店の 地下室に在ったんだ 」


「 これは 古いスーパーの 倉庫に在ったんだ 」 と


出所を言う ディーラーの言葉から 考え始め



田舎町の そういう店を 自分で探し歩いたら どうなるだろう?


当てもなく出掛け、 何も見付からなければ、採算が。。。。






知り合いに 話を聞いたわけでもなく


古着屋で働き、 仕入れに同行した経験も無い 私



今では、 多くのバイヤーや 古着屋オーナー


古くは、バナナ・ボート の オーナーらが してきた


ARMY & NAVY Shop 等を 回る作業を



何の情報も、経験も無い私が

思い付き、行き当たりバッタリで 始めようとしていた時期で


その 原動力が


あの  デッドストック  WOLVERINE Shoes たち



今から 約20年前の  1990年頃



私よりも、 知識、 経験のある

秀昭さん、 コージさん が 夢中になって 話し込んでいた


あの  “ 地味な ”  靴たち



良い物なのだろう、 良い物な筈だ


ドサッと見付けて 、びっくり させてみたい




有名どころの ラグ・ハウスには

既に、老舗古着屋の ピッカー達が 常駐していたし


日本人向け ビンテージ・プライス・リストを作っている所もあった



同業者が はじいた物

一度 人の目を潜った物を、高値で買うのは まっぴらだった



日本人の目に 未だ 触れていない物を 探し出し


秀昭さんや、コージさんと  同じレベルに 昇りたい




その様な 動機で


私は、ラグ・ハウス派 では無く


郊外を 車で周るスタイルを 採るようになった




見たことの無い  街や、 自然の 景色


その土地、 人種独特の 料理 が楽しめ



人に 頭を下げたり、 愛想笑いをするのが 苦手な私には

ピッタリの スタイルだ



北は カナダ国境から、 西は セントルイス

南は フロリダ まで



ウォーバッシュ から、 ジョーダン 5 まで



デットストックで 掘り出した 幾百もの 想い出は


アメリカ土産として 心に残っている







「  これで 全部 ? 」



「 あー、 裏の トレーラーの中にも 売れ残りが 在るけど、

これなんかより ずっと古い物だから たぶん興味無いだろう。。 」



「 まあ、 ついでだから  見てみるよ 」 と




行ったら、そこには


デッドの ブラウンズ・ビーチ が ドサーっつと!!




いつか   歳をとったら、


秀昭さん達と  こんな 思い出話で


お茶を 飲んでみたいものだ と思う  今日 この頃である



Watch Cap by  CORONA
Jacket by POST OVERALLS

色気無い 着こなしで スミマセン

秀昭さん、帽子&ジャケット ありがとうございました!








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