渡邊秀樹 ヘルズエンジェルス等 アメリカ生活14年間の体験談など 仙台 渡辺秀樹、HELLS ANGELS について
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明日、10月16日金曜から 3日間
宮城県柴田郡村田町で 「 蔵の陶器市 」 が 開催される
東北、関東を中心とした 約70の 陶芸家、窯元が一同に会し
村田町の 古い店蔵、店舗を利用しての 展示、販売市である
以前、 「陶芸体験」のブログで
写真を数点掲載し、私のブログにもリンクしている
“ 銀さん ” 鈴木厚さん も、 作品を 展示、販売するので
お近くの方も、遠くの方も 足を運んで頂ければと思います
もちろん、鈴木智さんも 奥様のハツミさん共々 出店しています
この 陶器市までに
銀さんの事を
スムーズに ブログで紹介したかったのだが
丁度、先週から 店舗物件の話で進展があり
バタバタと忙しくなってしまい、 又
銀さんを 知った経緯が 長く成りすぎて
どうしても 上手くまとまらず 時間ばかり掛けてしまった
私としては
長い時間を掛けて 遠回りをしながらも
何かの 御縁で たどり着いた
感慨深い めぐり会いであり
文才の無さ故
上手に伝え 表現出来ないのが 歯痒いのであるが
アーティスト 銀さんを 紹介するには
お知り合いに成った経緯も 伝えたいので
ここ数日、 付けたり 削ったりしながら
頑張って 書いてみた
この 前置きを 最後にしようかとも思ったのだが。。。
銀さんは
彫刻家であり、 陶芸家である
私は、 昨年の 村田陶器市で、
SAM‘S 修君の お兄さん、 智さんから紹介されて
小1時間ほど 立ち話をしただけの
知り合いペーペー なのであるが
作品の写真や、その匂いを 何年も前から感じていた私は
数年来の知古 の様な親しみを 勝手に覚えているのである
アーティストでも、 収集家でも、評論家でもない 私は
作品について 私見を述べる愚は 避けたい
ただ、 銀さんの
素質、 作品に 惹かれている
そして、
焼き物は モチロン、
将来の 彫刻にも
非常に ワクワクしている
「 かお 」、 「 ブロックヘッド 」、 「 自刻像 」、
「 鈴木家 」、 「 まきこちゃんの像 」 等の作品に 特に惹かれ
「 月を視る男 」 も、写真ではなく 実物を間近で観てみたい
焼き物も これから どんどん進化して行くのでありましょう
濃厚な作品を 期待しています!
そもそもの スタートは
私が20代後半、 1990年代中頃
エンジェルスを休憩し、古着の卸し、販売等で生計を建てていた頃
「 うちの親戚に、スンゲェ人が いるんですよ! 」
と言ったは、 ショップ SAM‘Sの オーナー 鈴木修君である
修君が、ニューヨークの拙宅に来ていた時だったか?
デニムや、ジーンズの話をしていた最中に 出た話題だったと思うが、
「 木の 彫刻で
脱ぎっぱなしのジーンズとか、波打ってる布団とかを 彫ったりして
それが、いぎなり ヤバイんですよ! 」
という感じの、 おさむ君節
当時は、 「 へえー、 」 くらいの感想で
それほど 執着しなかったのだが
私が 30歳代に入った 数年後、、
西山禾山老師の 調べ物をしているときであった
禾山老師の木像を彫った
平櫛田中の 木彫作品画像等を 見ているうち
偶然、 知らぬまま
凄い 木彫作品画像に 出くわし
魅了された
その作家は 鈴木実 氏 である
師の桜井祐一氏が 平櫛田中に師事していた事や、
奇しくも、昭和53年に 平櫛田中賞を 受賞されていることから
ネットでの 画像検索中に 作品の画像が数点出てきた為である
私は、大変興味を 掻き立てられ
多くの作品を 見てみたい欲求から
早速、 ネットで 神田の古書店から
展示会の図録、作品が掲載された雑誌等を 数冊探し出し
日本にいる 妹に送ってもらい
大いなる興奮と共に 鑑賞しているうち
作品の中に
「 私自身の肖像 」 という “ 木彫のジーンズ ” を 発見
この作家こそ、
あの時の 「 親戚の、スンゲェ人 」 ではないかと 思い
修君に 聞いたところ、 まさに そうであった
修君からも 何か 本を 見せられたかと思う
面白い経路で たどり着いたモノだ と
妙縁を感じたものだが
いつか 日本に帰ったら
実物を 観てみたい
と 思いつつ
それら作品の 強烈な “ 匂い ” は
10年来、 頭の中に 残っていた、、
前出の、 鈴木智さんの地元 村田町で毎年行われている
「 みやぎ村田町 蔵の陶器市 」 に 初めて 足を運んだのは
2年前である
70軒近い 窯元が集う 陶器市で
自宅から 車で30分も掛からない場所であるし
以前から 知ってはいたのだけれども
楽しんで 器を買える余裕もない 懐具合から
見て見ぬ振りをしていたのだが
この時は、 智さんに 挨拶がてら
ちょっと時間を作って 顔を出してみた
陶器市の時には、 街のメイン・ストリートが封鎖され
歩行者天国と 成っており
凄い数の人出で ゴタゴタであったが
それでも、 車道をゆっくり歩きながら
村田町名物の 古い建物を見て歩くのは 良い気分である
地元の銘酒「 乾坤一 」の 酒蔵もあり
店内には 智さんの器も ディスプレーされたりしていた
以前、花山に行った際に
知り合いの 知り合いである 佐藤旅館ご主人の紹介でお邪魔し
今でも気に入っている 良い酒杯を購入させて頂いた
座主窯さんも 出店していたが
この日は、陶器市向けの 品揃えなのであろうか、
私好みのモノは 売れてしまった後か、
窯変の イカツい 物や
灰が ザザザッと のってるような物が無かったので
何も 購入せず仕舞い
そもそも、
お金をあまり持たずに
ひやかしで 出かけていたのであるが。。
そんな中で、一軒
「 オヤっ! 」 と 思わせる ブースを見付けた
悪い意味ではない、場ちがいな、浮いた感じの 品揃えである
あえて、言葉強く言ってしまうと
私にとって、この陶器市全体の印象は
おばちゃま向けの 陶器市という感じで
中には、 趣味に毛の生えた程度の 作家? も在り
智さん、ハツミさんの作品以外には
あまり魅力を 感じなかったので
もう 来なくてイイかナー と、 飽きてしまっていたところ
突然、ストライクを放られた 感じであった
しかし、店主が居ない
私は、 あえて 近寄らず
遠巻きに見てから 一度離れ
他のブースに入り 考えてみた
奇抜なことをする 若い作家のデザインか、、
しかし 薄っぺらたい 感じがしない、、、
何の 味気も無い 焼き締めの店を見てから
あらためて そのブースに 行ってみた
シンプルな姿に 細やかな絵付け
ギッチリ描き込まれた物には ワクワクした
目玉らしきモノにも そそられる、、
少々時間を掛け
小さなものを 2つ選び出し
有り金はたいて 購入しようと 辺りを見回すが
家主らしい人が いまだ 見当たらない
縁が無かったか、、
しかし どんな人なのだろう
若い人か?、、
と、 その場を あとにし、 智さんのブースへ戻った
「 なんか 面白いの見付けた? 」
「 一軒だけ、 面白いの見付けたんですが、店主不在で、、 」
「 ふーん、誰だや? 」
私は、
その時点では 銀さんの存在すら 知らずにいたので
結局、その日は そのまま何も買わず
来年は もう来なくても良いだろう、
智さんの家に 時々見に行けば十分 という感想で
陶器市をあとにした
数週間後、
何かの拍子で
元窯、智さんのブログにある リンクを 開けたところ
あの日、
店主不在で 買えずに帰った器の 作家が判明した
「 銀窯 」 、 “ 銀さん ” である
「 知り合い だったんだ! 」 と
器のページ等を めくり 進めて行くと
“ 彫刻のページ ” へ 、、、
私の ツボに、 ズドーン! である
そして、
作品 「 鈴木家 」、 どこか 見覚えが、、
「 ブロックヘッド 」
「 まきこちゃんの像 」 、、
匂い、、
数日後、
私は 村田町 元窯に 智さんを訪ね
銀さん の事を 尋ねてみた
「 銀ちゃんは、 鈴木 実先生の 息子さんだよ 」
やはり そうか!
銀さんの 作品に惹かれた 私自身の喜びと、
つじつまが合った 達成感の様なもので
私は 上気した
数年来 魅了され続けていた 鈴木実氏の木彫
70余軒有った 陶芸作家ブースの中で
私が 唯一、 ユイイツ 、
立ち止まり、 欲しい と思ったブースが
銀さんのブース であったこと
それも、 染め付けの器を見て 惹かれ
たまたま 開いたリンクで発見し 彫刻作品を目にしたこと
そして、その彫刻作品を見て
匂い、
造形美や その特徴というのではなく
内なるものが 顕われる
その顕れかたというか、 香し具合に
惹かれながら 感じられたこと
ここ数日、
どんなに頑張っても
その時の感覚を
文章で 上手く表現出来ないのであるが
ウワワワワー! という
感動だったのである
修君の親戚 ということは、 智さんの親戚でもあるとか
鈴木姓 に 漢字1文字の名前という特徴とか。。
その時は 全く気付きもしなかったのだ
今回は、
銀さんこと 鈴木厚さんを 紹介するのが目的でしたので
鈴木実氏の作品画像等は あえて掲載しておりません
いずれ あらためて御紹介する機会もあるかと思いますが
興味のある方は ネットで 検索してみて下さい
私個人は、
造形の美しさや、 色使いの巧さ 云々ではなく
その人物、 作家の 精神性や 人間、匂いが
“ 作意無く ” 自然に 滲み出ているものに惹かれ
顕しきれている作家に 敬意を抱く態なものですから
これからの 銀さんに
多大な 興味と、魅力を感じています
私 個人に関して言えば
知名度や、世間の 価値 評価
作意の臭う、小手先技の 奇抜な作品に 魅力を感じない というのは
普段の生活や、稽古でも一緒で
例えば、
~チャンピオンの称号や、
豪快な一本勝ち、華麗なテクニック等は
若いうちの目標で
それ以降は、 とにかく、内へ、内へと ゆく様になり
胆(ハラ)を練って
自ずから 顕われるトコロで 勝負 (勝敗という意味では無く)
という具合に
地味に、じっくり 内側から容作る
という風に 成ったものですから
私が 現在
お金の掛かる 娯楽的な趣味を持たず
墨蹟と、伝記等の書物にのみ お金を使うという理由も
そういう事からと 理解して頂けると思います
尊敬し、影響を受けた人物の 墨蹟を手に入れ
身近に置き
叱咤激励、 啓発される 喜び
「 書は 人なり」 と 言うように
無作為な書には、 その人物の人間性が 顕われ
狭い部屋で 鑑賞していると
まるで、
膝を突き合わせ
教えを頂けている様な 気持ちになれるものです
それ故、
ボロを着ても、飯をぬいても
探している墨蹟と 良縁があれば
私は 手に入れようとします
良師を見付ければ
九州、沖縄へも
自転車、徒歩ででも 訪ね行く
というような 心持ちと同じであります
このブログは そもそも
アメリカでの生活について ということで 始めたものなので
武道や 先哲、墨蹟 等についての事は
積極的には 書かない様にしているのですが
あえて、もうひとこと 言えば
見栄え良く 外を取り繕うよりも
内を じっくり磨いて
正直に 光り出すのを待つ
メッキは こすると はがれますが
無垢の金属は こする程 その光沢を増しますから
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先日のブログで 懐中時計と 書いたが
画像を入れなかったので 紹介
好きで ずいぶん集めたが
売ったり、トレードしたり
今は、気に入ったものを 4っつに絞り
服に合わせ 度々 持ち歩く
特に、使う頻度の多いモノが
大、小 2つある 背面が ガラス張りの
1906年製 ウォルサムと、 1909年製 エルジン
中の メカニズムと その動きが 見えるタイプの物で
アメリカでは、セールスマン・サンプル等と呼ばれ
絶対数が 少ない物
メーカーの 新作を
セールスマンが 時計店へ 売り込み営業に行く時 携える物で
背板を いちいち 開けずとも
新作のメカニズムや、彫刻、ゴールド・パーツ等の内容を
一目で 小売店主に 見せることが出来る
見ていて いつまでも飽きない ギアの動き、彫刻
時を刻みながら、時を忘れさせる と言ったところか
私の お気に入りである
デニムなどの カジュアルには 大きい WALTHAM を
ウール等を 上品に着る場合は 小振りの ELGIN と 使い分ける
14金入りケースの ハミルトンは 万能選手といったところか
シンプルで上品な感じだが、文字盤の数字が イイ
1940~50年代の服や 現代の服と合わせる
もう1つの 大きいエルジンは まさに レイルロード・ウォッチで
ケースの背に 蒸気機関車が 彫られている 1892年製
分厚いガラス、繊細な 文字と 針
胸のウォッチ・ポケットから
右手で チェーンを引っ張りだした時に
文字盤が 見え易い様 作られている、上のエルジンも 同じ横向きである
ハミルトンの WWⅡ 24時間時計も 持っていたが
店で良く売れ 在庫が無くなった時、自分の物も出してしまい
それ以降 程度の良いものが 見つからなかったのだ
2日半ほど持つゼンマイや、ブラック・フェイスは魅力的だったので
今、あらためて、 4っつの懐中時計を出し 見ていると
手放したブラック・フェイスが 妙に懐かしい
あれほど ガラスが綺麗で 状態の良い物には
もう 出会えないだろう、、、
私は 普段
指輪、ピアス、ネックレス等の 装飾品は
一切 身に着けない
日々の オシャレに 余り執着しないことは
以前、古着の所でも 説明した通りであるし
汗かきの体質
稽古や、 ウエイト・トレーニング度の 着脱
若い時から
海に潜る時以外 腕時計も した事が無いのは
「 楽しむ 」 よりも
” 邪魔くさい ” に 軍配が上がる 為である
何か 特別な機会
例えば、 観劇や 友人との飲食に 出かける時に
コレクションしている 日本の物
アメリカで手に入れた 古い物などを 身に着けるくらいである
酒を飲まない 私にとって
年に数回 有るか無いかの 居酒屋行きも ”特別な機会” であるから
好きで集めた 懐中時計も
こういう時にのみ 持ち出し 楽しむ
そんな私だが
先日、友人の店 カチナ・トレーディングに 入荷した ネックレスを
ひと目で 気に入り 購入した
新品の アクセサリーを購入するのは
20年ぶり くらいである
店主は 高校の同級生
25年来の ” 腐れ縁 ” で
普段から あらゆる事で 世話に成っているのだが
自分の身を飾る 経済的余裕が無い 今の私は
たびたび 彼の店に お邪魔するも
付き合いで 小さい物を購入する という事すら 出来ず
もうしわけない気持ちで いたが
ハイ・クオリティー & シンプルな デザインに 惹かれ
いつも、もらい物ばかりで 申し訳ない気持ちも有り
「 歳とっても、シャレっ気は 亡くしたくないよね 」
の 一言にも、 ちょっと 背中を押された
美術館へ 仏像や、武将の 企画展を 見に行く時や
お能を 観に行く時には
集めている 武徳会物を 身に着けてゆく
友人と 飲み食いに 行く時などは
アメリカで購入した 古いドクロ物、 シルバー物が多い
武徳会の 記念品は
将来、展示する機会が あればと
細々と 集めている
剣道愛好家には 集めている方も 居ると思うが
私の様に 身に着ける人は 居ないであろう
普段は 書棚に飾ってあるのだが
身に着けるのは 私なりの 愛着である
ジャケットに付ける ピン仕様が 多く
あからさまには 上着に 付けたくはないので
オリジナル シルバー アクセサリーを作っている友人
( クオリティー高い、丁寧な仕事してます )
SILVER AS ART の 幹さんへ頼み
細、太 2本の シルバー・チェーンに
可動式のピンを通す筒を シルバーで作ってもらい
T-シャツの下へ こっそり 忍ばせる様にした
今回、 手に入れた
ナヴァホ・アーティスト、 メリー・M・リンカーンの ネックレスは
オウトツ凹凸や、ライン等無い ソリッド・サーフェイスで
シンプルさと、良いバランスが 魅力であった
ネイティブ・アメリカン ” らしくない ” と言えば そうだが
” クサくない ” というのも
長く、目立たず 着けられそうで 良かった
そのまま シンプルに
又、センターに ペンダント・ヘッドも 下げられるので
和風、洋風 どちらにでも 使えそうで
私には 好都合である
友人の店には 著名アーティストの 高品質品が殆どで
とても魅力的な 一生モノばかり
今の私には 手が出せないのが 現実であるが
身に着ける 好きな下げ物 数点と 写真を撮ってみた
北米、カナダに居るウォルバリンか?失念、上あごの骨
26丁目の アンティーク・マーケットで
ネイティブ・アメリカン(インディアン)の古い祭事品や、
獣骨を多く扱うディーラーから 20年程前に購入
洗浄した骨、牙、シルバーの板で背面を塞ぎ、周囲を包んで固定している
「 鬼 」 大きい物だが、刀剣装飾に近い細密物で
日本の高純度な銀の打ち出し
明治~大戦後に 日本からアメリカに渡り
宝石店で、14Kゴールドの背面板、鎖通しを付けられた物
高価だったが、アメリカの
Japanese Work of Art オークションで購入した
「 タロン 」 何年か前、リメイク品を日本の雑誌で見掛けたが
これは古い物で
20年程前、NYの老舗アンティーク・シルバー・ショップで購入
これを購入した時、ニューヨークで型取りし5個作り、店で販売した
凹凸の鮮明さは、オリジナルには敵わない
時間的に、
月に 1度位しか 更新出来ていないブログですが
これから
日常の出来事等含め 短いものを
ちょこちょこ 更新する様 勧められたので
努力してみます
気配すら 感じられない
かれこれ 9時間
「 むだ金か。。。 」
溜め息も出ない
97年 8月末
当時、
L.L Bean 唯一の 販売店が在った メイン州 Freeport から
北へ 約200マイル ( 約 320km )
最寄の街 Bangor から 山道を1時間以上走り
さらに、徒歩で 30分程 森林の奥に入った 樹の上に
私は居た
8月を過ぎると
ブラック・ベアーは 冬眠に備え
昼間も 積極的に 行動をはじめ、 シーズンが 開幕する
この時は、 私にとって
3度目の ブラック・ベアー HUNTING であった
カナダ国境も さほど遠くない この場所は
北海道最北端、 稚内、と 変わらない緯度で
日没が近づくと 8月末でも肌寒く
Teeシャツに、M65 タイプ のコットン製ジャケットだけでは
ツリー・スタンド上での 静止姿勢が 辛くなって来ていた。。。
。。。 前日の 朝 。。。
HUNTING ロッジに 到着後 直ぐ
私は、 ハンティング・ガイド から
スコープ無しの ルガーと
スコープ付き ウィンチェスター 両方を 借り
少し離れた オープン・フィールドへ出かけた
地面に 腰を下ろし、 左膝を立てた ニーリング
立ったままの スタンディング、
手首を樹木に当て 銃身のブレを押さえながらの スタンディング と
60m先の樹に ピンで刺した 直径25cmの 紙皿に向かい
2種、 3通りの試射を 数発ずつ繰り返す
銃器の 取扱は 慣れており
鹿撃ち用 ワンランク パワーの低い ライフル弾は 撃ちなれていたが
ベアー用 大口径ライフルでの ターゲット・シューティングは
実は、 この時が 初めて であった
コンパウンド・ボウ ( 狩猟用の ハイパワー・アーチェリー )
しか 所持していなかった 私は
HUNTING ガイドと ロッジ の 予約の際
電話で、 ハッタリ半分 使い慣れている風に
「 1丁 貸してくれないか 」 と
頼んでいたので
みっともない着弾で、 初心者であることが バレない様
1発目、
未知の反動が 凄まじくない事を 祈り
かなり 真剣に、 集中して 引き金を絞った
鹿撃ち用の それよりも 口径が大きく
パワーのある パウダー( 火薬 ) を使った ライフル弾は
想像通り 反動が大きかったが
2発目からは 要領を得て
20発近くを 次々と 射ち込んだ
「 Good Shot! どちらでも 好きな方を 使ったらいいよ! 」
隣で、 スコープを片手に 着弾を見ていた ヘルパーの 老人が言った
樹木に 銃身の 固定が出来れば
スコープを着けた方が 数段 楽であるし
ここの猟場は 約40メートルの 待ち伏せで、
微調整も 必要無い距離
銃自体が 若干重く、 銃床の長さが 身体に合い
反動が 僅かに少なく感じられたので
私は、スコープごと ウィンチェスターを 借りることにした
スコープ無しでも 辛うじて 全弾命中させていたので
不安だった1発目の リバウンドも手伝い
気分が 高揚してきた
丸1年 待った HUNTING トリップだった
あとは
大物、トロフィー・サイズに 遭遇するかという事だが。。。
2日目、
夕方 6時を過ぎ
帽子の上から かぶった
メッシュ製 カモフラージュ柄の フェイス・カバーを脱ぎ
カイロ代わり 懐に入れてある
午後の 自分の尿が入った ペットボトルと共に
傍らの デイ・バッグに入れ
蛍光オレンジの ベストを取り出し 身に着け
ツリー・スタンドを 降りる
ツリー・スタンドとは “ 待ち伏せ ” の 狩りをする時
樹の上に身を隠し、 長時間の待ち伏せと
安定したシューティング・ポジションを 取るに足りる座面を備えた物で
梯子が付いた アルミ製 携行式 の物から
地元のハンターや ガイドが、 ハンティング・シーズン 前に
獲物の 通り道や、 餌場が 見渡せる樹の上に 設置する物で
今回は
この山の樹を 切り出し、 材料にして ガイドが設置した
大き目の ツリー・スタンドであった
同じ山に無い 樹の匂いに 野生動物は 敏感に反応する
私は、はしごを降り、 40m程離れた 風上の 餌場に向かう
銃口を 空を向け 胸の前に持った ウィンチェスターは
セーフティーを外した 撃発状態にしてある
一日中 注視していた その餌場に 変化が無いのは 当然だが
獲物の 影さえ拝めなかった ここ2日の鬱憤を 晴らす様に
確認せずには いられない気分であった
シーズン中、 餌場に 人間の匂いを残すのは 御法度であるが
私は、 今回のガイドに 見切りをつけ
明日まで 2泊3日を 予定していた 今回のトリップを
今夜 切り上げると 決めたから 気にしない
山中、何処に居るか分からない 他のハンターからの 誤射に遭わぬ様
カモフラージュ柄の デイ・バッグは 背負わず、 左手に持ち
ロッジの方向へと 山を 下りる
ひどい落胆と 若干の怒りで 足が 鉛の様に 重い
前日朝の 気分は 何処へやら である
ハンティング・ガイドの 仕事は
シーズンが 始まってからの 具体的な ガイド作業と
シーズン前の リサーチが 2本の柱だ
この、 シーズン前の リサーチが
ガイドの良し悪しを決める 最も大事な 仕事である
シーズン毎に 地元の山々を 歩き、
あらゆる サインから
それぞれの 動物の 行動半径、 通り道、 水のみ場 等を調べ
ハンターを案内する
獲物によって
その 通り道に 定期的に餌を置き、 ” 餌場 “ を 作ったり
メスの 尿を 特定の木に 塗り付けたりと
ハンターが 獲物に出会う 可能性を高める 最大限の努力をする
ハンターは、
その年に ハーベスト出来る 獲物の数が決められていて
毎年変わるが 通常、 DEER、 BEAR 共に 1頭ずつ
そして、 ルーキー ( 初心者 )以外は 「 トロフィー 」 といって
鹿 ならば そのポイント( 角が枝分かれした 先端の数 )
ブラック・ベアーならば その大きさ、重さで
より 多く、 より 大きい 獲物を 狙うので
小さい熊や、 貧弱な角の 鹿は 見送り、
その年 最多、最大の 1頭 を ハーベスト しようとする
しかし この日 私は
足元を散歩する ホワイト・テール ( 鹿 ) を1頭 見ただけで
熊の 足音すら 聞いていない
ガイドに対して
ロッジでの 昨日からの 言動も
どうも 信用に足りる 強い印象が 持てなかった
「 このガイドならば 、大きい獲物と 出遭わせてくれるだろう! 」
そういう 安心感、 プロ意識 を 感じられないでいた
つまり 「 “ ハズレ ” ガイド 」 に 当たってしまった と
私は 感じたのだ
ハンティング・ガイドは
知人、ローカル・ショップの紹介や 、 雑誌の広告等 で 探し
オフ・シーズンに 数件のパンフレット、その年の 料金表を入手
実績写真、 金額、 ロケーション
電話で話した印象 等で 絞込み 決断し
前金の小切手を送り、 予約する
しかし 実際、 開けてみなければ 分からない
ギャンブル的な 要素も 多分に有り
着いてみたところ
田舎のお兄ちゃんに 毛が生えたような者に 当たることも有るし
実績に関係なく
親戚や、友人のガイド、 リベートの高いガイドを
優先的に薦めたりする ショップの店員もいる
そこに、 運や、 自然条件、 動物の気まぐれも 加味されると
毎回、 大きい獲物に 遭遇出来るという可能性は 非常に少ないものだ
そして、短い狩猟期間に 何度も ガイドを確保出来ない 現実もある
例えば、
3ヶ所、シーズン前に 予約を入れておき、前金を 振り込むとする
幸運にも 1つ目のトリップで 大きい鹿を ハーベストすれば
その年の ハンティング・リミット 1頭が それで終わり
残り 2ヶ所は キャンセルしなければならない
前金は 戻って来ない
1-2万円の 話ではなく
セスナで 山間を移動する アラスカ等での ビッグ・ゲーム となると
10万円単位の 損失だ
ガイドの確保、予約は 1回、1回 ハーベスト出来るまで となる
しかし、ハンティング・シーズン 開幕時には
既に、 ほとんどの 優良ガイドや、ロッジが
シーズン 終わりまで 埋まってしまうので
チャンスは 年に 何度も無いものなのである
そして、不思議な事に この 鹿や 熊たち
普段、 畑を荒らしたり
高速道路脇で 優雅に 草などを食べたりしているのだが
ハンティング解禁! となる その日から
見事に、人間の視界から 消えて 居なくなってしまうのである
これは ハンターなら 誰もが言う事で
“ 野生の直感 ” の 神秘である
初めの数年は、 ハンティングの 経験を積みながら
信用できる ガイドを見付ける 試行錯誤の 時間であり
信頼と 居心地の良さを兼ね備えた ガイド&ロッジに 出会えると
親子 何代 という、ハンターとガイドの 関係が 出来るのである
。。。 7時頃 。。。
ロッジへ戻り、 屋外で普段着に 着替える
ハンティング用の服は 生活臭が移らぬ様
全て ビニールの袋に入れ 密閉し
ジーンズと、
前日朝の ライフル試射時に着ていた ウインド・ブレーカーを着て
ロッジの中に入る
テーブルで 談笑していた
ブルックリンと バージニアから来ている
5人組の ハンターたちに声を掛けた
皆、どのスポットにも 失望して もう 2度と来ない と言っているが
会社で 4連休を 取って来て
明日から 女房の顔見るのも 嫌なので
ここで 空き缶でも撃って 遊んでいるよ と 小声で話す
私は、 お金が もったいないので 切り上げるが
ブルックリンで ばったり会ったら 飯でも食おう などと言い合い
ガイドの 妻が居る ギャリー( 厨房 )へ 向かう
無愛想に
満足していないので、 今夜 出立する 旨を申告し
前払いしていた 2日目の料金を 全額返金させる
これから 10時間近い 夜の運転のために
目の端に入った コーヒー・メーカーに 手を伸ばしたかったのだが
私は 素早く この場を立ち去る方を 選んだ
駐車場を出て
未舗装の山道から 片側1車線の公道へ 出る
コーヒーと、 運転しながら摂れる スナックを探すため
30分以上 店の1件も見なかった往路とは 反対の方角
北へ 車首を向けた
ガソリンスタンドの ホットドックを 食べる気分では無かったので
GSを 1件 やり過ごし
10分ほど 走らせたところで
小さな 集落に 入った
田舎町、 7時を回っていたので ほとんどの店は閉まっていたが
コーヒー・メーカーと、
ドーナッツの ラックが見える ドラッグ・ストアーが 開いていたので
その店の前に 車を 滑り込ませる
フレッシュな コーヒーは 期待できないが
木造の 古い建物 惹かれるように 店に入る
改装された 店内は
明るい照明と、 スチール・ラックで 埋め尽くされ
薬から、 文房具、おもちゃ、下着類まで置いてある
ジェネラルストアー ( 何でも屋 ) 的な 店であったが
違和感のある 物が すぐに 目に入った
古い、上半身の ボディーが 1体
店の奥 鏡の前に 置いてある
「 もう、新しいコーヒーは 淹れないよね!? 」 と
キャッシャーの男に 声を掛けながら 店の奥へ進む
紙を 張子のようにして作られた
50年代以前のもの と思われる そのボディーは
Hanes社の モノであった
面白い物だが
狩りの落胆で その時は 余り興奮もしないまま
店内を 軽く 物色した
キャッシャー脇のカウンターで ドーナッツを 数個を選び
コーヒーを 紙コップに入れ
支払いを済ませてから 切り出してみた
「 私は ニューヨークで 洋服屋を営っているのだが
あの ボディー、$50ドルで 売ってくれないか? 」
安くもなく、 高くもない 値段
上げ下げ無しの 一発勝負だが
田舎町で $50ドルの臨時収入は 大きいハズだ
「 50バックス!? 。。。フーン。。。。、 オーケイ、、 」
少し困惑している顔の 男に 50ドル札を 手渡し
さらに ひと声 掛けてみる
「 売れ残った下着や、服なんて 無いのかい 」
「 何も無いよ、 前のオーナーが 処分して、地下は殆ど空っぽさ 」
「 見せてもらえないかな、店で使える物があったら 買いたいんだけど 」
強盗とは思っていない様だが
少し オドオドした様子の 男に
ハンティングの為 休暇で来た経緯を話しながら 地下室に下りた
ガランとした コンクリート打ちっ放しの地下室は キレイに掃除され
キャンディー・バーや、 ハンド・クリーム類の ダンボールと
使っていない什器が 多少在るだけであった
まあ、 運の無い日は 全てに こんなものだ と
地上に 上がるため 振り向いたとき
地下に下りる 階段裏側の棚
大きな ジーンズが無造作に掛けてあるのが 目に入る
「 あれは? 」 と尋ねると
男が 店を 引き継いだ後、 事務所のロッカーに残っていたので
地下室に 降ろしておいたのだ と言う
承諾を得て 手に取ると
フラッシャーつき、革パッチの 502S XXであった
ディスプレー用、 W76インチで
汚れひとつ 無い
テンションが わずかに 上がりかけたが
まだ
失意の猟師から、 買出し屋へ 気持ちが 切り替えられないでいた
また それが
冷静さを保つ 手助けに成っていたのかもしれないが。。
薄暗い 地下室で
私は ヘタに男を興奮させない 低い金額を 提示した
頷かない
倍にする
頷かない。。。
「 オーケイ、 じゃあ マネキンだけ 貰って行くよ 」
私は そのまま ゆっくりと 階段を昇って 地上へ上がり
Hanesの ボディーを取りに 店の奥へ向かった
男は、背後から ジーンズを 持って 付いて来ていた
現金にしたいのだ
私と 向き合うと
「 さっきの金額 プラス 50ドルで どうだ? 」 と言う
私は 少し呆れた表情で 承諾し
現金を 渡して 素早く その店を立ち去った
まあまあの 収穫
ヘインズのボディーも あらためて見ると 悪くない
帰り道、 Bangor を過ぎ
車を 運転しながら
502S ダブル・エックスの 細部をチェック していると
徐々に 収穫の喜びが 沸いて来た
古着の方は、 良い風が 吹くかもしれない
ポートランドに 1泊し、
買い付けをしながら ニューヨークへ 戻ろう
そう決めた 私の 頭の中
不愉快な 猟の結果は
すでに 何処かへ 吹き飛び
ツリー・スタンドの下
私の足元を 悠然と 歩き過ぎて行った
ホワイト・テールの 毛並み、 大腿部の 筋肉の動き
全身から 溢れ出る
野生動物の 神々しさだけが
フラッシュバック する
= END =
エッセイ風 に成ってしまったが
アメリカでの 趣味は? と 尋ねられたら
私は、
30歳位までは フィッシング & ハンティング と 答えただろう
ハーレー、古着、アンティークは
仕事等の からみも有り
純粋な 趣味とは 言えなかっただろうし
空手、剣道 は 私にとって 趣味という 次元のものではない
雑念を入れず、 100% 楽しめていた趣味は
フィッシング & ハンティング トリップ であったと思う
日本には いない魚
日本では、難しい 釣りの スタイル
そして、
ビッグ・ゲーム・ハンティング を
アメリカに居る間 経験しておきたかった
魚釣りは 小学生の頃からの 趣味で
今では 車で行くのも億劫な 隣の市や、町まで
早朝から 独り、自転車をこいで 行ったものだ
アメリカでも
ほとんどの トリップは 独り
暑い夏は 北へ
New York 州、 アップステイトの 山岳地帯
Blue Mountain、 Adirondack Park
山の谷間に 点在する 湖へ
カヌーを 頭にのせ
山々を 越えながら キャンプをして 釣り歩く
この地方独特の クラッシックな スタイル
寒い冬は FLORIDAに 下り
ポット・ベリー バスや
ソルト・ウォーターでは、 バラクーダ
ジャック・フィッシュ、 ドルフィン( マヒマヒ、シイラの名称 ) から
ハンマーヘッド・シャーク
セイルフィッシュ ( カジキの一種 ) の トローリング
WISCONSIN 州へは マスキーを
OREGON 州 では
淡水魚 自身最大 2m70cmの チョウザメを 釣った
ハンティングは
Bear( 熊 )、 Moose ( ヘラ鹿 )
Deer( 鹿 )、 Boar( 猪 )、
Rabbit ( ウサギ ) 等を 訪ね
一度は、 試しに
下着から、パンツ、シャツ、ジャケット、
膝丈の レース・アップの ブーツまで
40年代以前の ハンティング・ウェアーで 山に入った事も有る
“ コスチューム・ハンター ” といった トコロだが
雰囲気的には 違和感無く、それはそれで 楽しかった
日本には なじみの薄い 釣り方や、
ハンティング自体の 説明でも かなりの 量になりそうだし
各 エピソードを 書き出せば
本1冊分以上に 成るであろうが
銃器、ツールなどの 細かい仕様や
ハンティングの専門用語等を なるべく省き
私の 、Hunting、Fishing 、 魚、 野生動物 に対する
当時の 心境の変化も 織り交ぜ
どなたにでも 読み易いように
その都度 説明を入れながら 書いてみたいと思う
私が ビッグ・ゲーム ハンティングに 興味を持った きっかけ
ヘッド・ハンター
小説ではあるが
作家 大藪氏の 実体験も 含まれているはずで
10代の 多感な時期 ストイシズム、 男の生き様
多大な影響を受けた 1冊である
(木製ツリースタンドの写真は、私本人当時のもの)
私は 外見に 全く頓着しない
ヘアースタイル、 服装、 車、 等々、、
実用、機能優先タイプの人間である
モーターサイクル・クラブに居た頃は
ビザ更新の為 半年に1度 帰国し
仙台駅西口に在る 友人の床屋 「 ドスティー 」に行き 整髪した
毎日 バイクに乗り ヘルメットをかぶる
クシャクシャの髪を直すのも、帽子を被るのも面倒だった私は
1度、 楽な アイパーをかけて クラブに戻った事がある
「 ストレートの黒髪 」 が 、東洋人、 私の印象だったのか
くせ毛や、髪の薄い アメリカ人にとって
余ほど 不思議な印象であったのだろう
「 髪型 変えたのか? 」 では無く
「 どうしたんだ!? 何をしたんだ!? 」
「 どうして わざわざ そんな事をするのだ? 」 と
1980年代
男性がパーマをかけることは ほとんど無いアメリカでは
メンバー、一人 一人に 会うたび、好奇の的となり
笑いの種に成ったのも 思い出である
その後は、長期裁判の為 9年間 日本に戻れず
伸ばし、 結んでいた髪を 自分で切っていた
今も、友人には申し訳ないが
安上がりに、バリカンを使い 自分で済ませている
服装に関して
極端な 汗かき、暑がりの私は
一年の多くを、T-シャツ 短パンで過ごす事が多い
夏は、T-シャツや 靴下を 日に2-3度交換する
オシャレよりも 心地よさ優先である
ここ数年 新しい服は購入したことは無く
仕事柄 持っている物の殆どは 古着であり
着飾るため というよりも
味わい深いモノ 、 作品 としての魅力を感じ
見て、着て 楽しんでいる というところである
しかし、 前述の通り 夏が苦手な 汗かきの私は
汗による 襟や、袖口のヨゴレが 痛ましく
デニムも 汗をかく度 洗っていたのでは
色落ちも、風合いも あったものではないので
ハワイアンや、ワーク・シャツを 着るのは
11月頃から 2月位までの
長時間歩いたり、暖房の効いた建物に 長居する事の無い場合と
古着に興味がある人に 会う時だけの
ほんの 短い期間である
若い頃 好きで集めた スカジャンも
年齢と共に 似合わなくなり 30歳を過ぎた頃 全て売ってしまった
逆に、 毛皮 や 、地味な ハンティング・ジャケット
ベストに スカーフを巻くスタイル等が
年齢と共に 浮き立たなくなってきた
自分の顔に 合っているか
着こなしているか、 服に着られてはいないか
私の場合 服装のポイントは “ 顔 ” というところか
私が自分を、流行は勿論のこと、着飾る事や
自分を 格好、体裁良く 見せたいという
強い欲求が無いと 自己分析するのは
外出する時
鏡の前で、 色合せ、 組み合わせ
シャツの選択に 迷ったりすると
なにか 自分が “ 男らしくない事 ” をしている様な気がして
投げ出してしまい
無地のウインドブレーカー等を羽織って
「 ヨシ 」 とする事が 多々あるからでもある
車も然り
私にとって 車は
“ 移動に使う 便利な鉄の箱 ” 、 又は
“ 大きな カバン ” 程度の 「 物 」で
腰に負担の掛からない 座り心地の良いシートだけが 条件である
つまり、 基本的に 主役はあくまでも
「 自分自身 」 という 考えである
人間 30代にも入れば
性格、 人生経験、 それまでの修養 が
自ずと 顔や、雰囲気に顕れてくる
とりわけ 綺麗な服を着ていなくとも
男の注意を 誘う “ 魅力的 ” な 女性がいる
ハンサムでなくとも、 顔、全身から出る 圧倒的な 存在感で
着ている物や、車、バイク、持ち物を 気にさせない 男がいる
いつくしみ深く 人に接し
誠実に、 熱く、 きびしく 自分自身を磨く事によって
人間は 内側から光を発し 、 その光は 衰えること無く
こころざし 続く限り 増すばかりである
私は その 内側から にじみ出て来る 「 光 」 即ち
温かさ、 威厳、 存在感 というものを 尊重するが故
他人の容姿や 服装、 経済力や 社会的地位 云々
同時に 身の回りを飾ることに 頓着しない
これは 案外簡単に 実践、証明 出来る事で
ブランド物の靴や アクセサリーを買う お金の中から
3,000円ほど 絞りだし
木刀を1本買い
毎朝、5時に起き 1時間の素振りを 1年間続けてみるとよい
良い靴に、洒落たネックレスの似合う
“ いい男 ” に成っているはずである
そんな私が 23歳で アメリカに行き
古着、 ハーレー関係の物を扱う事を 生活の糧にし始めた
動機や きっかけ は、長くなるので ここでは割愛するが
1990年台初頭、 回っていたのは
俗に “レギュラー” と呼ばれる
低価格で アメリカらしいデザインの
シャツ、ジーンズ、T-シャツ、スゥエット等の 基本衣料と
雑誌で紹介される わかりやすく、知名度のあるビンテージ であった
それこそ 始めた頃は
数百枚単位で 日本に送れたので
細かい 色、柄 等も さほど気にせず
スリフト・ショップを数件回り 車を満杯にする様な
雑な買い付けも していたが
次第に この色は、、このチェックは、、このプリントは、、と
内容を 絞り込まれてゆくと
経験浅く、目が未だ洗練されていないのに 加え
前に述べた様に、
服に余り執着が無く、センスの良い 洒落者ではない 私は
良いチェック、売れるプリント、等を見極めることに 苦労をした
アメリカに 住みっぱなしで
日本人がどんな格好をして 街を歩いているのか
見られないまま 続けていたのも マイナス要因だったかもしれない
古着を愛し、お洒落を楽しむでもない 私が
とにかく 歩き、 睡眠時間を削り 車を走らせ
がむしゃらに こなしていた 初年度
私にとって、買い付けは “ 労働 ” 的なものであり
あのまま 続けていれば
服を選ぶ センス、資質の無い当時の自分に 限界を感じ
楽しみ、満足しながら出来ていない仕事に 嫌気が差し
買い主も ストレスを溜め
長くは 続かなかったのではないかと 想像できる
が しかし
この ターニング・ポイント的な時期に
良縁 が 働いたのである
私が
古い Outdoor Wear や
Work Clothes に 興味を持ち、 好きに成り
買い付けの 宝探し的楽しさに 目覚めさせてくれた
「 CORONA 」 の
西 秀昭さん との出会いである
私は 、日本に帰り 40歳 を過ぎたら
普段着は 全て 和服にしようと 思っていた
が、しかし
胸囲が有るため 着物の古着も 着られる物が 見付からない
今は、 数を 仕立てられるほど 懐具合もよろしくない
かといって 作務衣というのも 垢抜けない
ないない尽くしで、 未だに 古着を着る 中年である
新品は、 FILSONを 古着と一緒に 着まわしている程度で
何しろ 高い お金を出してまで
買いたいと思わせる 新しい服が 見当たらないでいた。。
(これ位のデッドは ナカナカ出ません 1910年代)
1940年代以前の WOOL & COTTON
色、 柄、 かたち、 ステッチ、 素材の 厚み 密度の 質感、
そして、 今では 定着している 一般的、機能的なデザインに無い
各社 独自の 工夫、 オリジナリティー
時として 突飛なスタイルとも成る 奇抜なデザイン
当時の機能性と 、衣類デザインの 試行錯誤が見られる 時代
この時代の 実物を 手にすると
なかなか 現行の服を 楽しく 着ることが出来ないものだ
しかし、 40年代以前の ビンテージで
自分に似合う 色、 柄、 サイズ、 そして コンディション。。
そうそう 沢山 見付かるものではない
特に私は
チェスト・サイズ ”46” は 必要なので
服が、 好きになれば、好きに成るほど
あくまでも、上の条件を満たす ビンテージを探し続けるか
テーラー・メイド に するか という事になるのだが
「 CORONA 」 は、
私の 、年齢、 スタイル、 好みに ストライク! である
“ 服が、 好きなんだなぁ~! ” と
しみじみ感じる ディテール、 ラインナップ
頭の中には
未だ 実現していない 素材、 スタイル、 アイデアが
渦巻いているのだと 思う
「 CORONA 」 が ある限り
私に 洋服の 心配は 要らない様だ
秀昭さんに 感謝である
あとは、 自分のスタイルで 和服を着るべく
稼がねばならぬ ということだ
私が、 その秀昭さんに
初めて お会いした時の情景を 今でも 覚えている
デッドストックを 半年ほど穿いて 一度洗った様な風合い
確か リーバイスだと思ったが。。
ヒップ・ポケットの部分のみ ほんのり色落ちし
ステッチの色が 鮮明に浮き上がった
一目で ビンテージと分る 濃紺のジーンズを
かなり ゆったり目の オーバー・サイズで穿き
557か
これまた どす黒い色の デニム・ジャケットに
C-1 Vest を羽織っていた
秀昭さんの事だから
C-1 も
チェスト・ポケットが 斜めに スレントしたタイプの物を
着ていたのでは なかろうか。。
今から 20年近く前の事に成るが
ハッキリとした 記憶が残っているのは
当時、仙台育ちの 私にとって
デニム・ジャケットと C-1ベストの重ね着が
とても 新鮮な組み合わせ で あったからだ
アメリカに渡る前、20代前半の私や、 身の回りの友人にとって
古着とは
“ アメリカ人の様に成る為の道具 “ 的な 意味合いが
強かった様な気がする
501、 ホワイトTee、 ドリズラー、 リーゼント、
ハワイアン、 プリーツ・パンツ、 ギャバ・シャツ & ジャケット、
バディー・ホリー、 プレスリー 、etc。。。
1950年代、60年代の 音楽、 映画 の影響が大きく
80年代半ば 仙台では
ロックンロール、ロカビリーの コンサートや、
仲間内での ダンス・パーティー等も よく開催されていた
(私は 右端)
しかし, その ほんの4~5年の間でも 激しく流れが変わり
華やかな 50年代の アメ車、 50‘sの服 から
クラウン、 グロリア、 メグロ、 陸王 等 国産の 古い物にも手を伸ばし
「 アメリカン・グラフィティー 」の ファラオから、少しづつ 時代も上がり
「 ワンダラーズ 」、 「 ウォーリアーズ 」
「 アウトサイダー 」、 「 ストリート・オブ・ファイヤー 」 など
泥臭い アウトロー的なものや
「 タクシー・ドライバー 」 等
庶民的、一般労働者的な ファッションにも目を向け始め
エンジニア・ブーツに フランネル・シャツ
ワーク・ジャケット、 ピー・コートに ワッチ キャップ
バイカー Teeに デニム・ジャケット、 ダブルのライダース等
この 1980年代半ばから、後期にかけての数年間
私の友人、知人達の 急激なファッションの流れを
あえて 言葉で表現すれば
“ 憧れ ” 的なものから、
“ 現実 ” 的な ものに 洗練、進歩していったと 言えるかもしれない
若い私達は、
映画、 当時のコンサート・フィルム 等から
ファッションや アメリカの匂いを 貪欲に吸収し
それを 自分自身で体現、 表現する為の ツールとして
当時の服、 “ ビンテージ ” が
必要であり 且つ、 堪らなく 魅力的であったのだろう
さて、
説明が 長くなってしまったが
私の 言わんとしている事は、、 たとえば
当時 日本で私が持っていた 軍物は
M-65と、タンカース (当時タンカーJKTは まだ安く買えていた)
それを、
そのまんま タクシー・ドライバーの トラビス風に着こなす。。という様な
モデルとなる アメリカ人がいて、それをコピーし 成り切る呈の物で
田舎者の私には 見た事のない
C-1ベストと デニム・ジャケットの重ね着が
新鮮で、 とても 斬新に見えた為、 印象深く覚えていたのである
秀昭さん と 出会った 場所は
“ 77th & Columbus ”
私達、 ディーラー同士では “ コロンバスに 行ってくる ” という風に
“ コロンバス ” や “ 77 ストリート ” という言い方をした
Museum of Natural History(自然史博物館)向かい
パブリック・スクールの 校庭と、校舎の一部を利用した
フリー マーケット だった
ここは、衣類や 食べ物等が 多く
アンティークや、初出し( うぶだし ) 品は 余り出ないので
26丁目から はしごして来るディーラーは 余り居ない
どちらかというと
アッパー・ウエストサイドの住人や、観光客が来るマーケットだ
その頃 私は、82丁目のセントラル・パーク沿いに 部屋を借りていて
朝、5時頃から 26丁目の アンティーク・マーケット
8時過ぎに、ブロードウェイ沿い GRAND St のマーケットに回り
その後 コロンバス に向かうというコースで 日曜の午前中を過ごしていた
当時の コロンバス・マーケットには
パット、 デイビッド・オーゥエン、メトロポリスのリチャード、
軍物と さほど古くないデニムを持った 黒人のおばさん等
多くの古着ディーラーが 出店していた
後に、
パットは 26丁目にも 下りてきたし、
リチャードは GRAND St と掛け持ち、
デイビッド・オーゥエンは 3ヶ所 プラス・アルファーと
精力的に 展開していたが
初だしの 古い物を狙っていた私は
マーケットでは 26丁目をメインにしていたので
一般の アメリカ人を対称にした物が多かった コロンバスでは
デイビッド・オーゥエン以外
たいした BUYは 期待していなかった
当時、私達 古着を集めるディーラーは、 各々
気の合う アメリカ人 ディーラーを 何人か 確保しており
私にとって、この コロンバスでは デイビッド・オーゥエンが そうで
彼が ラグ・ハウスで 掘り出した中で、 日本のマーケット向きの物は
マーケットに出す前に、 自宅で
私に 見せてくれる事に 成っていた
私も それなりに 彼が納得する 誠意ある金額を払い
サイズ、コンディション等の理由で はじいた物は
日本人観光客向けの 価格設定等を アドバイスしたり
持ちつ持たれつの 関係を持っていた
パットや、リチャード等 他のディーラーにしても
それぞれ 気の合った日本人ディーラーが 居たのかと思う
そして、 コロンバス・マーケットは 26丁目と違い
ゲート、開門時間が 有ったので
荷おろし中に 交渉することも出来ず
秀昭さんが すでに門内に入っていたこともあり
私は、 買い付けというよりも
秀昭さんに 挨拶する事と、 食べ物を買うためという
非常に のんびりしたムードで 行ったものだ
食べ物では
今でも 思い出すと 口の中が潤ってくる
眼鏡をかけた 黒人のおじさんが焼く
キャロット・ケーキや、 スパイシーな ベジタブル・マフィンが
忘れられない
冬には、
ニュージャージー辺りの 果樹園から来ていたのだろう
リンゴなどを 売りに来ていたブースの
甘酸っぱい ホット・アップル・サイダー
それらの 軽い朝食を取りながら
一応、マーケット内を サラリと1周し
陰気な感じで 私は どうもウマが合わなかった リチャードの
「 メトロポリス 」 ブースを 手伝っていた
秀昭さんに 会いに行く
当時、全くの手探りで 古着の買い付けを始めた私は
古い メール・オーダー・カタログ等を集めて 勉強する といった事さえも
考えが及ばず
朝、26丁目で 見付けた物や、 その週に買った 古着について
「 これは、古い物ですか? 」
「 これは、いつ頃の物でしょう? 」 と 遠慮無く 無知な質問をし
秀昭さんは 倦まずに そんな私の 相手をして下さり
古着の事から、 買い付け先の ラグ・ハウスの事まで
色々と 話して下さった
その頃の 私は 特に 人見知りが 強く
14年間 ニューヨーク、ニュージャージーに住みながらも
話をする 日本人の知り合いは 5人と居なかったほどであるが
秀昭さんと
秀昭さんに紹介された コージさんの お二人は
日本から来る 古着屋の オーナーや、他の ディーラーと違い
なぜか とても接し易く
人柄なのでしょう
若くて 無知な 私にも 色々優しく教えて下さり
私にしては 珍しく、自宅にも邪魔させて頂いた
ビンテージや アンティークの ディーラー、店主 にとって
「 物 」 は、「 金 」 に成るもの
万人平等に起こる 物との 「 偶然、必然 の出会い 」 プラス
早起き、 幅広い 良い人付き合い、 リサーチの努力 は
自分で出来る 努力
おべっかを使い、時には嘘もつき、 他人より 10ドルでも多く出して
どうにか 「 手に入れる事 」 が、 仕事としての成功で
大変 アグレッシブな 弱肉強食 の世界である
男らしい態度、 人が好い 優しい性格、 は
往々にして 「 物 」 が手に入らない マイナス要因とも成り
仕事としての 「 成功者 」 に 成る為には
かなり 徹底した 「 商売人 」 に成る事も 要求される
愛好者、 コレクターでもあり
それを売り買いして 生活も 成り立たせなければならない
自分の好きな物を、理解し、購入してくれる 需要量
マーケティング、 セールスの センス
良心、 プライドとの 葛藤 等々、、
ビンテージ、アンティークの ディーラー、店主 は
何処に重きを置くかで 様々な 心労があるものだ
秀昭さんは 既に、服を作る事で 動き始めていたのだが
コージさん同様、 「 商売人臭さ 」 が 感じられなかったのが
私にとって、 接しやすかった 理由だったと思う
初めて 秀昭さんのアパートに お邪魔した時の事
確か、 Queensの アストリア だったと 記憶している
部屋のコーナーには 天井から、 Lee Cowboy の
ディスプレー用 ジーンズが ぶら下っていた
当時 初心者の 私
「 これ、案外 見付からないんだよねー 」 という 秀昭さんに対し
「 へぇー、そうなんですかー 」 と 実感の無い、軽い返事をかえし
その珍しさに 余り ピンと来ていなかったのだが
後々、10年以上
州外を回り、ローカルなフリー・マーケット、アンティーク・ショップ
古い店での デッドストック探し等をしたけれども
Lee OVER ALL、 LEVI‘S “E”、 “XX”
珍しいところでも FINCK‘S や、カーハート と
ディスプレー用 ジーンズ、オーバーオールは 色々見付けたが
Leeの カウボーイ の ディスプレー・パンツ は
1度も 実見しなかったので
後年、
あれは 凄かったなー と、 つくづく 実感したものだ
又、ある時は
「 これ 面白いでしょ、 こういうの 探してるんだ 」 と
“ オーバーオールが 走っている ” デザインの
ワーク・ウェアー・ボタン を ポケットから 取り出し 見せてくれた
「 可愛いですねー。。。 」 と 言っては みたものの
その魅力を 全く理解していなかった 当時の私
20年前、 既に 秀昭さんは これらを収集していた訳で
今でこそ 私も 数百個のボタンを 集めてしまっているが
それも 秀昭さんが きっかけである
そして、 秀昭さんの お部屋で 色々と お話をしている時
コージさんが 段ボール箱を抱えて 訪ねて来た
この、 コージさんは
私の、インダストリアル・デザイン好きに 火を点けてくれた人で
州外を車で回り、買出しをする
同業者 プラス、 ビンテージ & アンティーク Lover である
ウォール・ストリート金融街 近くにある
コージさんの Cool な ロフト にお邪魔した時
ズラリと並んだ、アルミ製のロッカーに 一目惚れし
私も、 アメリカ軍 潜水艦用と言われる それを
部屋に置き切れないほど 探し出し、楽しんだ
釘や ボルト、ナット、機械部品等を 溶接して 手作りした
スクラップ・メタル・ワーク に 興味を持ったのも
コージさんの影響である
後に、 一緒に 26丁目のマーケットを 回った時
鈍い金色に光った 数千ドルもする 真鋳製の望遠鏡に 何度も引き返し
「 あと、千ドル安ければ 買うのにな~ 」 と言っていた事が
懐かしく 思い出される
その頃は、
「 これに、よく 数千ドルも出す気になるなぁ 」 と
思いながらも
私も、洗練されれば 何時かは 良いと思うのだろうなぁ と 感じていたが
案の定、後年 古い真鋳製望遠鏡の魅力にも ハマってしまった
その コージさんが 部屋に持って来たものは
どこかで掘り出してきた デッドストック
WOLVERINE ウォルバリンの 革靴であった
恥ずかしい事に、当時 駆け出しの私は
Work Clothes等の 40年代以前の物に 知識が 全く無かった為
その 古い ワーク・シューズに 対し
「 地味だなぁ 」 としか 感じられず
2人が、靴底の作りや、縫製等について 熱心に語っているところを
ボンヤリと 眺めていた だけであった
その日の記憶は そこまでであるが
その時の 二人の 熱心で、楽しそうな光景が
何故か 頭を離れず
当時、ブルックリンの ラグ・ハウスと、古着屋、スリフト等で
日本からの 注文に どうにか間に合わせていたのだが。。
26丁目 の マーケットで
デッドストックの ジーンズの山を 何度か 見付けるたび
「 これは 、ロングアイランドの 乗馬用品店の 地下室に在ったんだ 」
「 これは 古いスーパーの 倉庫に在ったんだ 」 と
出所を言う ディーラーの言葉から 考え始め
田舎町の そういう店を 自分で探し歩いたら どうなるだろう?
当てもなく出掛け、 何も見付からなければ、採算が。。。。
知り合いに 話を聞いたわけでもなく
古着屋で働き、 仕入れに同行した経験も無い 私
今では、 多くのバイヤーや 古着屋オーナー
古くは、バナナ・ボート の オーナーらが してきた
ARMY & NAVY Shop 等を 回る作業を
何の情報も、経験も無い私が
思い付き、行き当たりバッタリで 始めようとしていた時期で
その 原動力が
あの デッドストック WOLVERINE Shoes たち
今から 約20年前の 1990年頃
私よりも、 知識、 経験のある
秀昭さん、 コージさん が 夢中になって 話し込んでいた
あの “ 地味な ” 靴たち
良い物なのだろう、 良い物な筈だ
ドサッと見付けて 、びっくり させてみたい
有名どころの ラグ・ハウスには
既に、老舗古着屋の ピッカー達が 常駐していたし
日本人向け ビンテージ・プライス・リストを作っている所もあった
同業者が はじいた物
一度 人の目を潜った物を、高値で買うのは まっぴらだった
日本人の目に 未だ 触れていない物を 探し出し
秀昭さんや、コージさんと 同じレベルに 昇りたい
その様な 動機で
私は、ラグ・ハウス派 では無く
郊外を 車で周るスタイルを 採るようになった
見たことの無い 街や、 自然の 景色
その土地、 人種独特の 料理 が楽しめ
人に 頭を下げたり、 愛想笑いをするのが 苦手な私には
ピッタリの スタイルだ
北は カナダ国境から、 西は セントルイス
南は フロリダ まで
ウォーバッシュ から、 ジョーダン 5 まで
デットストックで 掘り出した 幾百もの 想い出は
アメリカ土産として 心に残っている
「 これで 全部 ? 」
「 あー、 裏の トレーラーの中にも 売れ残りが 在るけど、
これなんかより ずっと古い物だから たぶん興味無いだろう。。 」
「 まあ、 ついでだから 見てみるよ 」 と
行ったら、そこには
デッドの ブラウンズ・ビーチ が ドサーっつと!!
いつか 歳をとったら、
秀昭さん達と こんな 思い出話で
お茶を 飲んでみたいものだ と思う 今日 この頃である
Watch Cap by CORONA
Jacket by POST OVERALLS
色気無い 着こなしで スミマセン
秀昭さん、帽子&ジャケット ありがとうございました!
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